【New】the scent of rain
(2022 / 6 / 19 Passion! VIRTU@L STAGE!4 新作)
雨は良い。聞きたくない言葉をかき消し、見たくないものに帳を下ろす。
アスラン=BBII世はホテルに帰る気になれず、雨宿りのために座り込んだ階段から動けずにいた。両腕に包まれたサタンはなんとか濡れずにここまでこれたが、アスランの服はしっかりと雨を受け、今も地面から跳ね返る水滴が靴を濡らしている。
理由ある帰国のはずが、あてのない放浪になってしまった。
数年ぶりにアスランが戻る予定だったレストランは、まるで魔法が解けたように消えてなくなっていた。追い求めていた師も行方をくらませている。つてがなくなったアスランは、ひとまずコンクールで手に入れた賞金を元にホテルへ身を寄せた。
海外での職歴やいくつものコンクール受賞歴など、自らの経歴は思ったより武器にならなかった。数多のレストランを回ったものの、ほとんどが門前払い。いくら名誉や肩書があろうと、この日本という神経質な国では個性が足枷となり、異端は排除の標的になる。
手をのばすと指先を容赦なく雨粒が覆う。この雨は土に降り、大地を潤し、やがてまた空に還るのだろう。比べて自分は何にもなれずに途方に暮れるのみだ、とアスランは自嘲した。
気にすることはない、機はいずれ来る、とサタンが言う。
わかっている。これは師とサタンによる試練の一つなのだろう。頭ではわかっているつもりでもアスランは疲れ切っていた。幼い頃から家族とも通じ合えず、他人とも深く交流を取ることが難しかったアスランが今更好奇の目に傷つくことはない。だがそれも、自分を理解し受け入れてくれる師がいたからこそだった。唯一の理解者という心の支えを失ったことにより、アスランの心は重く沈み、遥か昔に重なっていく。
物心つく頃にはアスランは理解していた。親の世界を占領する仕事への熱と、自分への温度を。そこにどんな理由があったかはわからない。だがアスランは自分の存在価値をそこに見出すことができなかった。自分は大切ではないのだろう、もしかしたら、不必要な存在なのかもしれない。最初こそは口にしていた願いも、自然と心に秘めることが当たり前となっていった。不要である自分は、なるべく目立たずに存在しているべきなのだろうという考えからだった。
温かい食事を共に食べたい。共に食卓に集い、同じ皿を囲みたい。今日の出来事を聞いてもらえるなら、話しきれないほどの思い出を毎日作り帰宅するだろう。誕生日にはケーキを。クリスマスにはプレゼントを。たとえそれが叶わずとも、せめて共にベッドに入り、手をつないで眠りにつきたい。
アスランの願いは何一つ願うことがなかった。
…母は自分を捨てるのだろうか。
常に一人で過ごす暗い部屋で、幼少期のアスランは泣く気力もなく外を眺めていた。
そうだ、あの日も雨だった。
すっかり濡れて冷えた手を降ろすと乾いた階段にぱたぱたと水滴が落ちる。まるで胸の内を晒す涙のようで、虚しさが溢れる。
「…師は、我を捨てるのだろうか」
思わず口に出した言葉をサタンが否定するが、その答えにアスランは力なく笑うしかなかった。
サタンはアスランが師の店で出会った、自分の存在を肯定してくれる唯一の友である。師の行方が知れぬ今では師との唯一のつながりとなってしまった。
ぎゅ、とサタンを握る指に力が入る。
「サタン…サタンは我を捨てぬな…?」
返ってくる言葉はない。サタンの赤い瞳は何も語らずアスランを見つめるだけだった。強くなる雨の音に重なって、アスランの心はザアザアとざわめき始めた。心のなかで縋るように繰り返し祈る。肯定してくれサタン、肯定してくれ、そばにいると誓ってくれ、我はもう・・・
「大丈夫ですか?」
優しい声。紅茶の香り。
目の前に急に落ちた影に、アスランは驚いて顔を上げた。
春の雨が木々の葉を揺らしている。
CLOSEと札を下げた店内、アスランは客席に座り窓を伝う雨垂れを眺めていた。
あの日カミヤユキヒロに出会ってアスランの生活は変わった。
住み込みで働くことになり、ホテル暮らしはすぐに終わった。アスランの個性を肯定する人が現れ、サタンの存在を大切にする人が増え、それらが仲間になり、ともに働き、…そしてこれから、店というステージを超えようとしている。
アスランは目の前に置かれた名刺に目を落とし、これも師の試練のうちなのだろうか、とサタンに問いかけた。微かに笑みを浮かべるサタンに、アスランも思わず口角を上げる。
「お待たせ。雨、止まないね」
「カミヤ」
トレンチからテーブルへ慣れた手付きでティーカップを並べるカミヤは、あの日と変わらない微笑みをアスランに向けた。
「今日は特別ブレンドにしてみたよ」
紅き涙とアスランが呼ぶ紅茶が、三つのカップに注がれていく。湯気が立ち上るそれからは優しく懐かしい香りがし、アスランの鼻腔をくすぐる。
「これは…懐かしいな」
「わかるかい?アスランと初めて会った日に作ったブレンドなんだ。ふと思い出して淹れてみたよ」
あの日も雨だったね、と淹れ終えたカミヤがアスランの隣に座る。アスランは丁度同じことを考えていたと言うか言うまいか悩み、紅茶とともにゆっくり飲み込んだ。
暖かさ、安心、優しさ、慈しみ、希望。カミヤの淹れる紅茶はそんな味がする。相手を笑顔にしたいというカミヤの気持ちが感じられるこの一杯をアスランは心から気に入っている。あの日この紅茶に出会わなければ、今頃どうなっていたかなんて想像もつかない。
二人の間で紅茶を見つめるサタンに気づいたアスランは、テーブルの中心に置かれたシュガーポットから砂糖を一欠片摘むと、一際小さなカップに溶かし入れた。
「おや、今日のサタンは甘め希望なのかい?」
「うむ、そのようだ」
「変な話を聞かせてしまったから疲れてるのかな、すまない」
「案ずるな、今回の件はサタンも前向きに進めたいと言っているぞ」
「そうか、それはよかった」
カミヤが手に取ったシンプルなその紙には聞き覚えがない事務所の名前とロゴが印刷されている。「みんなで挑戦してみないか」とカミヤが持ってきた、アイドル事務所からのスカウトの話。
まさか自分がアイドルなんて。今まで考えたこともない未知なる世界にアスランはまだうまく考えがまとまっていないが、不思議と不安はないのであった。
きっとこの先どんな道も、カミヤとならば歩んでいけるとアスランは信じている。
「…カミヤは、我を捨てぬだろうな」
「え?なんだい?」
つぶやかれた言葉は外の雨音に混ざり雑音となってカミヤの耳に届く。カミヤはなんだか大切な言葉のような気がして聞き返すが、アスランは暖かい笑みを浮かべてはぐらかすのだった。
「なんでもない、独り言だ」
雨は良い。大切な言葉を誰にも知られずに、自分の中に留めておける。
いつか雨が命の糧となる様に、師が我に示したように、そしてカミヤが我を導いた様に、自分も誰かの心の糧となる日がきます様に、と。
アスランはカミヤの手の中の名刺に、未来を夢見るのだった。
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